2011.4.11 宮城県七ヶ浜 「生き残った者の責任」

鈴木とし子(郵便局員)

「本当に怖かったんです。食料を積んだ車を男たちに囲まれてしまって。ものすごく怖い顔で物資を置いていけって」
そう電話の主は早口でまくしたてた。
どうやら被災した知人に物資を届ける道中に出くわした話のようだった。とはいえ私自身すでに数週間にわたり様々な地域へと物資を届けていたが、被災者の方々に凄まれたなんて話を聞いたことがなかった。
破壊尽くされた町の中を走るだけで通常の心理状態ではないだろうし、恐怖すら感じていただろう。
私が初めて被災地を目の前にしたときは、あまりの非現実的な光景にここで自分に何ができるのだろうかと足がすくんだ。そんな状態の中、少々荒っぽい海の男たちが突然、車の前に現れれば混乱しても不思議ではない。

しかし、すでに震災から1ヶ月近く経過していて、避難所には支援物資が充足しつつあるはずだった。
むしろオムツなどの大量の消耗品が消費されずに(消耗品とはいえ一気に消費できるはずもないのだが)雨ざらし状態になっているといった批判が出始めているほどだった。
だから、私はなまじその話が信じられなかった。

「わかりました。物資が必要ということなら、行ってみます」

そう答えると届け先の方の連絡先をいただき、翌日、現地へとハイエースを走らせた。

仙台市内から一時間ほど車を走らせたところに目的地の七ヶ浜はあった。
かつては県外からもサーファーが集ったというビーチには、津波によって流れ着いたコンテナが無惨に転がっていた。
届け先は鈴木さんという女性の自宅だった。高台にある住まいは被災を免れていた。
「ありがとうございます。ありがとうございます。いやー本当にありがとうね」
と赤間さんは物資を運んできた私に何度も頭を下げた。
そして、ここから少し車で走ったところに届けてほしいと私の車に乗り込んだ。

鈴木さんは、被災した町を間近に見るのは初めてだったそうだ。
「あぁー、あぁー」とただただ変容した町の様子に泣き声ともつかない声を出していた。
鈴木さんは以前、このあたりに住んでいた。
高台に家を建て、移り住んでから数年後に震災が起きた。当然、以前の隣人たちの多くが被災した。
被災した低地と被災を免れた高台とは、ほんの数メートルの急斜面が隔てているに過ぎない。
鈴木さんが被災した町に近づくことができなかったのは、
そのわずかな差に後ろめたさを感じていたからかもしれない。

着いた先は避難所ではなく、民家だった。
建物の損傷こそ目立たないが、家の中は完全に冠水していた。
家主一家は親類宅に身を寄せながら、1ヶ月近くかけて家の中から泥を掻き出し続けているという。

比較的被災の軽かった親族や友人宅に身を寄せている人。
1階は被災したが、なんとか2階でなら生活を続けられると自宅での避難生活を選ぶ人。
自治体が定める公的な避難所以外の場所で避難生活を送る被災者を在宅避難者と呼ぶ。
その多くが避難所に入っていないという理由だけで、支援物資を受け取る権利がないという。

在宅避難者の数や被災状況を把握するのは1軒1軒聞いて回らなければならず、現実的には不可能だ。
自治体を批難するつもりは毛頭ないが、1ヶ月経っても必要な支援が届いていない人たちがいるのは事実だった。

ここ七ヶ浜には数多くの在宅避難者がいた。

鈴木さんは支援を取り付けるため、必死だった。
そして関東に住む娘さんの伝手で支援を募り、その声がまわりまわって私のもとに届いたのだ。

在宅避難者30名分の物資を届け終わり、赤間さんを自宅へと送り届ける道中、一人の女性に会った。
その女性はむき出しの家の1階部分にわずかに残った床をタオルで拭きながら、思い出の品々を集めていた。
鈴木さんの友人だった。

鈴木さんのその方の手を取ると、
「私ばかりが助かってしまったみたいでね。ごめんね。ごめんね」
と泣きながら何度も何度も謝っていた。
私はかける言葉がなかった。

帰り際、鈴木さんは私に在宅避難者の窮状を熱っぽく語りながら、こういった。

「あの人たちに頑張れなんて言えない。だって頑張ってるんだから。ただ言えるのは、無理しないでねだけ。
その代わり私たちが頑張ればいいの。それが被災を免れて、生き残った者の責任だと思うのよね」

被災を免れ、生き残った者の責任。

それは何も被災地の人たちだけの話ではない。

日本中の誰にも言えることではないだろうか。

 

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