2011.11.23 宮城県本吉町「僕らが頑張れば」

小野寺三男(本吉響高校野球部監督・45歳)/西村賢哉(本吉響高校野球部主将・17歳)

4月10日。震災後、一ヶ月ほどで宮城県立本吉響高校野球部は練習を始めた。

体育館は遺体安置所となり、校庭の一部には自衛隊が臨時駐屯地になっていた。

津波を被らなかったとはいえ、野球どころではなかったはずだ。

もちろん生徒の中には、家が全壊したり、家族を失ったりした人もいた。

それでもやはり野球が必要だったと監督の小野寺三男さんは語る。

「不安を拭うにはやっぱり日常に戻ることだと思いました。私たちにとって、それは野球漬けだった毎日を取り戻すことでした」

誰もが野球はもうダメだと思っていたからこそ、もう一回、県予選を目指す。そう気持ちを戻すことが、何よりも前を向くことになるのだと考えたのだ。

初めての練習には、被災してグランドが使えなくなった他校の生徒も含めて35名ほどの高校球児たちが集まった。バラバラのユニフォーム、中にはユニフォームさえない者もいた。グローブやバットも共用で練習をおこなった。

バラバラだったチームメイトに会えた安堵感もあっただろう。エラーしても、野球ができる喜びに満ちた顔をしていた。

そんな生徒たちの表情に、小野寺さんも救われていたのかもしれない。

「生徒も不安、僕らも不安。一日でも早く安心したかったんです。野球が日常だった僕らにとっては、野球が支えだったのだとあらためて気づきました」

本吉響高校野球部は決して強豪校ではない。しかし、全国4000を超える高校の野球部員がそうであるように、本吉響高校の部員たちもまた、甲子園を目指している。

そして震災を経て、2011年の秋、練習もままならない状況下で創部58年にして初の県大会出場という快挙を成し遂げる。

新チームの主将、西村賢哉さんは、夏の予選で負けた先輩たちの姿が忘れられなかったという。

「先輩たちの頑張りを身近に感じていたから、最後の大会が終ったときの悔しさは痛いほどわかりました」

心配してもらえるのはありがたいが、だから負けても仕方ないではあまりに情けない。被災地の高校だからこそ、むしろ結果を残したかったのかもしれない。最後の夏に挑んだ先輩の背中は、西村さんたちを奮起させた。

「だから僕らの代は先輩たちの分まで頑張ろう、そう思ったんです」

もともとのポテンシャルがあったのだろう。しかし、先輩の思いを背負うことが、彼らの力となったのは確かだ。

思いは受け継がれていく。そして、その思いは強ければ強いほど、大きな力となる。

本吉響高校野球部が創部初めて県大会に出場したことは小さなニュースかもしれない。しかし、その一歩がいつの日か叶えられるかもしれない夢の甲子園出場へとつながっていくであろう。

「僕らが野球を頑張れば、この本吉町にもいいニュースになるはずです。だから復興のためにも元気に頑張ろうと思います」

そして今日も、西村さんたちの大きな声が校庭に響いていく。

西村賢哉
西村賢哉(本吉響高校野球部主将・17歳)

本吉響高校野球部
本吉響高校野球部

小野寺三男
小野寺三男(本吉響高校野球部監督・45歳)

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