2011.11.23 宮城県気仙沼  「父として」

村岡正朗さんは、本音を隠すように少しぎこちなく語り始めた。

「避難した高台から自分の家が津波に飲み込まれるのを、ただただ見つめていたよね」

村岡さんは1961年に盛岡で生まれた。

医大を卒業後、しばらくは大学のあった名古屋で消化器系の外科として勤務していた。
奥さんと出会ったのもこの頃である。ほどなくして、父親の代から続く病院の院長として、気仙沼で暮らしはじめた。

以来10年以上、地元住民のかかりつけの医師として働いてきた。即席に設営された避難所でも唯一の医師として、ケガ人の治療や検死に奔走した。

自らも被災している。人を助けている余裕などあったのだろうか。医師としての使命感かと尋ねる自嘲気味に答えた。

「他に医師もいないし、先生、助けてくれと頼まれたからやっていただけ。何かを考える暇がなかったおかげで、家も病院も失った現実を受け入れずにすんだんだ」

そんな村岡さんは震災から2ヶ月ほど経った頃、妻から叱責されたという。

「無精髭を生やし、いつまでも前を向くことのできない自分にいらだっていたんでしょうね。いつまで避難民のつもりなのだと、顔を張られた気分でしたよ」

そして髭を剃った。だが前を向いただけで、状況が好転するわけもない。さらに津波を被った地域は、土地全体を2mも嵩上げしなければならない。村岡さんの住居兼病院のあった地域は冠水も酷く、病院の向かいにあった幸町公園は完全に水没したままだった。

震災前から財政難にあえいでいた気仙沼市に自治体としての支援は期待できない。やはり、気仙沼を捨てなければならないのか。そう思い始めていた。

「ある時、妻から息子のことを聞いたんです。親に内緒で自宅を一人で見に行ったものの、あまりの状態にもう帰る家がないとショックを受けていたって。避難所では、そんな姿をおくびにも出さずに、私の仕事を手伝ってくれていたんですがね」

津波は3階建ての自宅の病院部分である2階まで飲み込んでいた。1階はソファや自動販売機が廊下を塞ぎ、重機でもなければ動かすことができない。2階は棚 という棚からモノが溢れ、患者のカルテも散乱したまま海水に浸かっていた。3階も家具が散乱したまま、何ヶ月も放置されていた。
歩くと「ミシ、ミシ」と何かを踏みつぶす音がした。足下に視線をうつすと、廊下には大きなハエの死骸が、びっしりと敷き詰められていた。
変わり果てた我が家に中学生だった息子がショックを受けるのも無理はない。
夢や希望を持つ前に、この先どうなるのだろうかという現実的な不安に襲われただろう。

にもかかわらず、そんな息子の気持ちに気づかなかった自分へのいらだちつつも、文句一つ言わずに健気に仕事を手伝う息子の姿に決意したという。

「何年かかろうとこの気仙沼に息子の帰る家を取り戻す。それが親の責任ですよ」

村岡さんは話終えると、警察からの電話を受けて盛岡へと検死に向かっていった。東北地方は医療過疎地だ。医師が少ないために、地域の医師たちが協力して検死を行っている。

住民の多くが老人で、自治体の財政も逼迫している。ここは日本の縮図だ。震災は、近い将来日本が直面する現実を否が応にも突きつけたのだ。

村岡さんは現在、気仙沼市内の別の場所で、地元住民のかかりつけの医師として病院を再開している。

村岡正朗
村岡正朗(医師・50歳)

南気仙沼駅跡
南気仙沼駅跡

津波と火災により甚大な被害を受けた南気仙駅。町を埋め尽くしていた瓦礫は撤去されているが、ここには復興の兆しすら感じられない。気仙沼湾内観光の最寄り駅として何人もの観光客を迎えていたホームは破壊されたまま物悲しく残されていた。

村岡外科クリニック跡/院内
村岡外科クリニック跡/院内

自宅を兼ねた病院は建物こそ残ったものの2階まで浸水。ベンチや自動販売機は重機がなければ、撤去できない。院内の床はヘドロと蝿の死骸で黒く埋め尽くされていた。

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