2011.8.21 石巻市網地島「奪われたふるさと」

小野喜代男さん(長渡行政区長・73歳)/桶谷敦さん(網島浜行政区長・71歳)/安田敏明さん(医師、元網小医院長/51歳)

宮城県の石巻港からフェリーで2時間ほどのところに網地島(あじしま)はある。浜は東北一の透明度を誇り、夏には観光客でにぎわう島だった。

訪れるのは5ヶ月ぶり。港にはぺしゃんこの車が転がったままだった。

震災直後の3月下旬。仙台市内の医師・安田敏明さんから連絡を受けた。

「網地島という島があるのですが、物資支援が滞っていて水もなく困っているんですよ。石巻港からの連絡船がようやく復旧したので、支援できないでしょうかねぇ」

安田先生は、大学卒業後、大手商社で働くも数年で辞し、医学部に入り直して医者になった方だ。そして30歳頃にネパールに渡り、辺境地の無医村で医療活動に従事された。帰国後は医療機関のなかった網地島で小学校を改築した網小医院の設立に加わり、長年医院長を勤められていた。震災後は、網地島はもちろん治療を受けられない市街から離れた牡鹿半島の被災者宅を回り、当然のように支援活動を行っていた。

「誰もやらなくなっても私には関係ないですよ。別に医者じゃなくてもいいんです。安田はもういらないと言われるまで、活動は続けますよ」と平然と語る安田先生の無尽蔵のスタミナと飽く無き情熱には、いつも助けていただいていた。

網地島のことは、津波の被害を最初に受けた地域として知っていた。地震発生後に津波を警戒し高台に逃げた島民たちが手を取り合い祈るように沖から迫り来る津波を見つめていると、島の前で波が割れ、被害が最小限にとどまったという話をマスコミが報道していた。映画のモーゼの十戒のような奇跡の島は、亡くなった方こそいなかったが本土とをつなぐ海底のパイプが破損し、水や電気の供給が止まってしまっていた。

安田先生から島の長渡行政区長である小野喜代男さんの連絡先を伺い、すぐに連絡した。

「安田先生には本当にお世話になっていてね。うんうん。水がね。なくてね。震災のすぐ後は自衛隊がヘリコプターで来てくれたんだけど、一日置きが二日置きになり、三日置きになりでね。次はいつ来てもらえるのかわからなくて。そりゃ石巻の街の方がよっぽどひどいみたいだから仕方ないんだけどさ。あと電気もないから、懐中電灯用の乾電池なんかもあると助かりますなぁ」

島の状況は逼迫していたが、小野さんの口調はこちらが思っていたよりもはるかに明るかった。

電気は本土から届いた発電機を動かして、朝と夜の計10時間だけしか供給されない。夜中になれば灯り一つない真っ暗闇となり、トイレに行くのもままならない。

水は次の供給がいつになるかわからず、配布物資を怖々使っているとのことだった。島には井戸もあるが30年近くも使っていないので、とても飲み水には利用できない。

「そうだね。言うなれば、島自体が避難所みたいなもんなんだよね」

そううそぶく小野さんの言葉は、悲しいほど的を射ていた。

翌朝の連絡船に積めるだけの水と食料を積み、島へと届けた。以来、数回に渡り、島を訪れた。

待合所に乗り上げてしまった民家。高台へ昇る階段をさえぎる乗用車。鎖国中のロシアとの友好の記念碑は無惨に転がり、港の小型漁船はほとんど破壊されていた。

何度目かの物資配布の後、島の港で帰りの連絡船の出発を待っていた時、軽トラックに大きなタンクを積んだ男性に出会った。

網地島のもう一つの行政区である網島浜行政区の区長・桶谷敦さんだった。

「これは年寄りのとこに持っていくお風呂用の水だよ。この島じゃ、70歳の私でやっと大人扱いされるくらいなもんだからね」

井戸から汲んだ水を、お年寄りのご自宅へと運びにいく途中だった。

島民の75%が65歳以上の高齢者。就学前の子どもはわずか5人ほどしかいない。桶谷さんが子どもの頃は3000人を超えていた島民もいまでは500人ほどになり、震災後は島を出て行く人も増えているそうだ。

物資を届けにきた旨を伝え、他に何か必要なものはありませんかと伺うと、支援へのお礼のあと少し間を置いて目を合わさずにポツリとつぶやいた。

「うん。まぁ、どうかな。あれば助かるだろうけど、なけれないで、この島の人たちはなんとかするからね」

毎日、避難所に物資を運んでいたが、遠回しにでも必要なものはないと言われたのは初めてだった。

そしてこう続けた。

「ほら、やっぱり私らの世代は戦争を経験してるから。あの頃はホントなんにもなかったからね。それと比べれば、多少物がないからって、まぁ大丈夫なんだよ。不便には慣れてるし。井戸だって昔使っていたんだから、洗えばなんとかなる。こんなこと言ったら、また島の人たちに怒られちゃうかもしれないけどね。ま、私はちょっと他の人と違うから」

支援団体としての思い上がりをはり倒されたような気分だった。善意の押しつけほど、みすぼらしい驕りはない。

張られた頬をさするような思いで恐縮しながら、その上で何か困っていることはないか伺った。

「去年からね。仙台の養護学校の子どもたちを30、40人くらい島に招待してたんだ。身寄りのない子どもたちには、田舎がないでしょ。だから、せめて田舎暮らしを体験してもらって、故郷ってものを感じてほしくてさ。ふるさとがっこうって名付けて、海に潜ったり、カヤックに乗ったりしてね。毎年続けたら、いつか心の故郷になってくれるかもなと思っていたんだけどね。さすがに今年は無理だろうなぁ」

と桶谷さんは、淋しそうに頬笑んだ。

5ヶ月ぶりに訪れた網地島の港で偶然、桶谷さんと再会した。

「あーあの時の」

そう驚くと、桶谷さんは隅々まで島を案内してくれた。私はこれまで何度も島を訪れたが、港以外を知らなかった。一日一便しかない帰りの連絡船に乗るため、あの頃は30分程度しか島に滞在できなかったからだ。展望台から見る海。安田先生の網小医院。そして小野さん宅にも連れて行っていただいた。

小野さんはコーヒーを淹れて歓迎してくれた。

震災時、島で大きな揺れを感じた小野さんは津波で船が流されると思い、すぐさま自分の船に乗り込むと沖へと向かった。果たして津波は島を襲ってきたが、予想より遥かに大きな波を前に死を覚悟したそうだ。そして凍てつくような寒さに耐えながら、一晩を海の上で過ごした。

「ものすごいでかい波だったけど、なんとか大丈夫だった。あとで考えると、あんな小さな船のために、命かけることなんてなかったよね」

目の前の小さな初老の男性のあまりのタフさに言葉を失ってしまった。しかし、そんな私を尻目に、小野さんはまるで動物園で迷子になったくらいのもんだというような口ぶりで笑い飛ばしていた。

震災が起きたあと、日本は大丈夫だと強く訴える人たちがたくさんいた。

日本は、関東大震災も乗り越えた。焼け野原となった戦争も乗り越えた。だから、必ずこの震災も乗り越えられるはずだと。

確かに歴史的に見れば、そうかもしれない。しかし、いまの日本人の多くが、関東大震災も戦争も知らない世代だ。何も知らない世代である私は、その歴史的な裏付けにピンと来ていなかった。あくまでその経験は属人的なものなのではないかと。

小野さんや桶谷さんに出会って、戦争を乗り越えた人たちの強さを初めて実感した。

私に、私たちに、その強さは受け継がれているのだろうか。

もしかしたら網地島の“ふるさとがっこう”に訪れた子どもたちには、その強さは受け継がれたのかもしれない。なにせ網地島には縄文時代から日本人が暮らしてきたという長い歴史があるのだ。

桶谷さんに別れ際、島を案内していただいたお礼を伝えると、

「いやいや。あの時、命を助けてもらったからね。今度はぜひ酒飲みにきてくださいよ」

と笑顔で言った。

私たちが、小野さんや桶谷さんたちから受け継がなければならないことは、まだまだたくさんある。

そして受け継いだことを、後世へと残さなければならない。

津波によって網地島の“ふるさとがっこう”は奪われてしまったけれど、それが震災のあとを生きる私たちの役目なのだ。

Photo by:Osamu Nakamura

網地島・長渡行政区長の小野喜代男さん(73歳)

Photo by:Osamu Nakamura

網島浜行政区長の桶谷敦さん(71歳)

Photo by:Osamu Nakamura

網小医院の元医院長の安田敏明さん(51歳)

Photo by:Osamu Nakamura

港には津波にスクラップされた車が放置されていた。

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