2013.4.20 相馬市原釜「1日、2日先なら前向きになれるけど」

福島県相馬市の沿岸部。原釜地区は、相馬港の南に位置する。ガソリンスタンド、理髪店、商店。。。カーナビの地図には街の証しを確認できるが、目の前にその跡形はなにもない。震災から2年経っても、時が止まったような光景が広がっている。

「目の前が海で、いつでもすぐにサーフィンに出かけられるのが気に入っていたんですけどね」

流された自宅の跡地にひまわりの種を蒔きながら、高橋司さんはつぶやいた。日本の水浴場88選にも選ばれる原釜・尾浜海水浴場は目と鼻の先。しかし、今は海中に瓦礫が散乱しているため遊泳禁止の看板が立てられている。司さんは、戦後直後から原釜地区の子供たちの成長を見守ってきた原釜幼稚園の先生だ。

私立原釜幼稚園は、司さんのおじいさんが設立し、現在はお父さんが園長を務めている。司さんも、3代目のDNAを受け継いでいるのだろう。大学卒業後、青年海外協力隊としてメキシコへ渡り、約2年間ストリートチルドレンの支援に取り組んだ。日本に帰国後は、通信課程で教諭免許を取得し、2010年から園で働きはじめる。そして1年後、震災が司さんたちを襲った。

子供たちを送迎中に震災に遭遇した司さんは、数名の園児とともに、津波から助け出した人や近くの住民含め40名近くの人たちと一緒に幼稚園で一夜を過ごした。真っ暗な闇の奥からは何かを叫ぶ人の声が一晩中、聞こえていたそうだ。幸い園児たちは全員無事だったが半数近くの子どもは家を失っていた。

悩みながらも少しずつ震災以前の生活に戻そうと司さんたちは苦心する。3月30日に裸足の子もいるなか卒園式を実施し、4月18日には幼稚園を再開した。ただ、どうしても震災前に戻せないことがあった。

福島第一原発が爆発した。

相馬市は避難区域と比べれば線量は低いが、それでも放射能の影響を懸念する人たちはいる。水道水を飲ませないのはもちろん、みそ汁をペットボトルの水でつくる人も少なくない。仮設住宅では、空になった大量のペットボトルが積まれている光景をよく見かける。幼稚園では、絶対に子どもを外で遊ばせないで欲しいとお願いする親御さんもいる。

「子供たちにとって体を動かして遊ぶことは成長過程においてとても大切なことです。外で遊ぶことが減ってしまったことで、年長さんになってもブランコを漕げない子がいる。まるで震災前から成長が止まってしまったみたいですよ」

ただちに影響はなくとも、別の事態を引き起こしているのだ。相馬に限らず、子供たちの運動不足による肥満の問題も顕在化している。除染もし、土も入れ替えていても、『この遊びはダメ、この遊びはいい』と明確なルールがあるわけでもない。司さんとて、人の子をあずかる立場としては、数値の上では大丈夫でも、やはり長時間外で遊ばせることには躊躇してしまうだろう。地べたに座れず、土の感触も知らない。子どもは転ぶことで転ばない術を身につけるもの。どんなに貧しくても、思い切り走り回ることができない国なんてない。

司さんは「もう、心が食われる」と表現した。「ここは行動を制限された牢屋」だと。

長い仮設暮らしで人が変わってしまったような親御さん。建てたばかりの家を失い二重ローンに苦しむ人。漁師をしている司さんの同級生たちは、放射能の影響でみな漁をやりたくてもできないでいる。原釜地区は跡形もないほど被害を受け、司さんの幼稚園に通う園児の数も年々減っている。このままでは来年には、園児の数は震災前の半分以下になってしまうだろう。私立の幼稚園にとって、経営への打撃は大き過ぎる。だからといって幼稚園を閉めてしまえば、いまいる園児たちはどこに通えばいいのか。

けれど、司さんは自分を納得させるように、「ここで生きていく強さというものがあるはず。今、逃げ出したら、もう帰って来られない気がするんですよね」と語った。

仙台の高校に通い、大学は関西、そしてメキシコで生活してきた司さんにとって、離れていたからこそ、故郷への想いは人一倍強いのかもしれない。「やっぱり地元はここです。100mずれてもイヤ」なのだ。

司さんは、今、原釜に代々伝えられてきた歌や踊りを受け継ごうとしている。積極的に同世代にも呼びかけ、諸先輩方の指導を仰ぎながら、4月には300年前から続く津神社例祭で仲間たちとともに剣の舞などを奉納した。

最初は何を歌っているのかもわからず、笛だ踊りだと言われても、どこか馴染めなかったそうだ。でも、その意味を少しずつ知ると、自分たちが生まれ育った地に根づくものを簡単に絶やしてはいけないと思うようになった。

「僕らより上の世代がぽっかりと空いてしまっているんですよね。これから原釜がどうなっていくかはわからないけれど、これまでみたく誰かがやってくれるではだめなんです。僕らがやらなければ」

400年前の大津波をきっかけに生まれた伝統の舞もあるという。それを途絶えさせるわけにはいかない。その想いは震災を経て、さらに強くなったという。

震災以来、相馬と聞けば多くの人たちが原発や放射能を思い浮かべるだろう。すぐに避難すべきだと声高に叫ぶ人たちもいる。首相官邸前で毎週のように叫ばれる反原発の声は、相馬で暮らす司さんの耳にも、届いている。

「日本は先進国ですが、実はとても弱いですよね。途上国の人たちなんて、電気がなくたって生きていますから。いっそ電気がゼロになった方がいいのかもしれませんよね」

“震災を風化させない”と言う人がいる。それは東京に住む僕を含めたリスクを取らない安全地帯に暮らす人たちの言い分だ。風化なんかしない。震災は一瞬でも、いまこの瞬間も現実に直面し続けている人たちがいる。人生は待ったなしで続いているのだ。

まだ30歳。英語もスペイン語も堪能な司さんなら、日本はもちろん、第三国への移住だって現実的な選択肢だ。いまなら新しい仕事をやる自信もあるだろうし、きっとできる。でも、10年後となれば、そうはいかないかもしれない。でも、地元への愛着は日に日に強くなっている。伝統を受け継ぐ世代としての自覚も芽生えている。仲間たちもいる。

「正直、幼稚園がいつまでできるかわからない。1日、2日先なら前向きになれますよ。でも、半年、1年先、もっともっと先を考えるとね。どうしたらいいか」

悩みながら、迷いながら、それでも前を向いて生きていくしかない。

司さんのメキシコ人の奥さんのお腹の中には、今、新しい命が宿っている。出産予定日は6月末。女の子が生まれる。

高橋司さん(幼稚園教諭・30歳) 奥様のリリアナさんと出会ったのは、メキシコでの協力隊時代。帰国後、約3年間もの超遠距離恋愛を経て結婚。震災が起きなければ、3月下旬にメキシコで結婚式をする予定だったそうだ。せめて写真だけでもと知人から教えてもらった支援団体による「フォトウェディング」に応募し、5月3日、思い出の詰まった原釜・尾浜海水浴場で、集まった仲間たちと一緒に瓦礫を片付け、貝殻でバージンロードをつくり手作りの式を挙げた。

高橋司さん(幼稚園教諭・30歳) 奥様のリリアナさんと出会ったのは、メキシコでの協力隊時代。帰国後、約3年間もの超遠距離恋愛を経て結婚。震災が起きなければ、3月下旬にメキシコで結婚式をする予定だったそうだ。せめて写真だけでもと知人から教えてもらった支援団体による「フォトウェディング」に応募し、5月3日、思い出の詰まった原釜・尾浜海水浴場で、集まった仲間たちと一緒に瓦礫を片付け、貝殻でバージンロードをつくり手作りの式を挙げた。

Photo by:Osamu Nakamura

原釜地区は平坦な地形ゆえ大きな被害を受け、司さんもメキシコ人の奥様、ご両親と暮らしていた家を失った。今では市外へと移住する人も増えている。

原釜地区は平坦な地形ゆえ大きな被害を受け、司さんもメキシコ人の奥様、ご両親と暮らしていた家を失った。今では市外へと移住する人も増えている。

Photo by:Osamu Nakamura

津神社例祭に向けて練習に励む。 マニュアルがあるわけでもなく、代々人から人へと伝承されてきた伝統だからこそ、何度も何度も繰り返すことでしか身体にしみ込んでいかない。

津神社例祭に向けて練習に励む。 マニュアルがあるわけでもなく、代々人から人へと伝承されてきた伝統だからこそ、何度も何度も繰り返すことでしか身体にしみ込んでいかない。

Photo by:Osamu Nakamura

400年に地域を襲った大津波は神社の前で止まったことから「津神社」と名付けられたと言い伝えられている。伝統の歌や踊りは、300年以上続いている。

400年に地域を襲った大津波は神社の前で止まったことから「津神社」と名付けられたと言い伝えられている。伝統の歌や踊りは、300年以上続いている。

Photo by:Osamu Nakamura

広告